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2012年2月5日日曜日

親友ってそんなものなのか?

先日、FM放送のティーン向け番組が「親友とは何か?」というテーマでリスナーから意見を募集していました。要するに、友達と親友の境目に線引きをすることで、「親友」の定義付けをしようというもの。

番組中に寄せられた声は概ね、何でも話が出来るとか、決して裏切らないとか、嘘をついたり隠し事をしないとか‥‥そういうものが大半を占めていました。先輩の声として大人たちからもメッセージが届いていましたが、基本的には似たようなものでしたから、世間一般の考え方としてはこれが平均的なところなのでしょう。

番組でもこれらをまとめることで結論とし、更に一歩踏み込むことはありませんでした。パーソナリティーも同じ意見だったのか、それともティーン向けなのでこれでよしとしたのか、真意のほどはわかりませんが、ワイワイ楽しければOKという近頃のメディアのあり方そのままのように感じて、残念で仕方ありませんでした。

確かに私も10代の頃は似たようなものだったかもしれませんが、だからこそ、大人が主導するメディアではもっと深いところまで踏み込み、若い世代に問題意識を投げかけて欲しかったのです。

では、私のいう問題意識というのはどういうことなのかということですが、その前に、私の中での「親友」とは何かをまとめてみます。

私は対人関係を大まかに4つに分類しています。 ※常に意識している訳ではありません。
  1. 知り合い: 顔と名前が一致する。
  2. 友達: 私的な内容も遠慮なく話し合え、互いに信じあえる関係。
  3. 親友: 相手のためなら自分をある程度犠牲にすることも厭わない間柄。
  4. 大親友: 肉親と同等。自らを犠牲にすることに躊躇ない関係。
私の中では、「親のような友達」または「親戚のような友達」が「親友」です。上記の分類でいえば、前者が大親友で、後者が親友ということになります。

親が子供を思う時、自分の命がどうなるかなど関係ありません。言葉にすると大げさですが、子供を守るためならたとえ火の中だろうと水の中だろうと、躊躇なく飛び込むことが出来ます。世間的にはそうでない親もいるようですが、少なくとも私は(もしかしたら一瞬躊躇するかもしれませんが)飛び込みます。

友達関係においても、そこまで深い繋がりがあるのが「大親友」であろうと考えています。太宰治の「走れメロス」に登場する友人関係がまさにこれにあたるでしょうか。

これに比べ、命までは犠牲に出来ないが、例えば自分の財産が無くなることくらいなら問題ないとか、人から後ろ指差されるようになっても構わないと思えるのが、「親戚のような友達」である「親友」となります。


私が番組を残念だと思ったのは、この私の考え方とは違う結論だったからではありません。 寄せられた意見のほとんどが受身であり、自分本位だったからなのです。


(自分が)何でも話を出来、(自分が)裏切られず、(自分が)嘘をつかれない・・・

親友を自分に都合のいい存在だと考えていることが驚きであり、情けなくもありました。そんなのは親友以前に友達でもありません。単に自分に利益をもたらす便利な存在が親友だなんて‥。

恋愛でもそうですが、自分が何を得られるかではなく、何をどれだけ与えることが出来るのかを考え、思い悩むのが真の「愛情」であり「友情」であると私は考えます。実際には10代の若者たちも経験を積むことで理解出来るようにはなると思いますが、だからこそ番組では、「そうじゃないだろ?もっとよく考えてみろよ!」と投げかけて欲しかったのです。

当のパーソナリティー本人とは面識もあるため実名は控えますが、もし今後も同じような企画を実施するのであれば、ぜひもう一歩踏み込んだ議論へ持ち込んでもらいたいと切に願っています。

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