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2012年4月12日木曜日

【facebook】facebookで職探し?

現在会社で中途採用の求人をしているんだけど、この春、大学を卒業したばかりの子が何人も応募してきていてビックリ。地元の不況具合を妙なところで感じてしまった今日この頃。


で、ふと思ったこと。

facebookページで求人をしたり、facebookの広告欄に求人情報サイトの広告が出てたりしてるんだけど、facebookって、求人ではなく求職に使うべきなんじゃないかな‥と。

だってタイムライン化したことにより、ちゃんと過去データまで記載すれば、履歴書+職務経歴書になるわけで‥

私はこんな人材です!こんな仕事をしてきました!こんな作品を作りました!こんなプロジェクトに取り組んできました!こんな研究してました!

と、思う存分アピールし放題なわけで‥

人によっては、友人の多さや業界関係者とのコネクションを誇ったり、全力で作り込んだfacebookアプリで技術力を証明したり、アートやデザイン系ならポートフォリオ代わりに使ったり‥

いくらでも活用方法はあると思うんですよね。

で、いくら力を入れてタイムラインや基本データを充実したところで、企業の人事担当者や経営陣が見てくれないことには宝の持ち腐れ。ポイントはこれをどう求職に結び付けるかですが‥

facebook広告を出してみてはどうでしょう?

費用的には5,000円とか10,000円程度でもそれなりのfacebook広告は出せるわけで‥

広告欄に「仕事さがしてます!」「現在失業中!仕事ください!」「求職!32歳・医療系MD経験10年」とか出てたら、お?って思わずクリックしちゃう人も出て来るんじゃないでしょうか。

まだこういう活用をしている人はいないみたいだし、今なら目立てるから早い者勝ちじゃないかな?

少なくとも、私がもし失業中なら絶対にやってみるな。

こんな方法で一流企業への就職は無理だろうけど、中小企業とかベンチャー系なら面白がってくれるところもあるんじゃないかなと思うんですが、 どうでしょう?

2012年4月9日月曜日

原発問題に対する現在の私の立ち位置

福島原発の事故から1年が過ぎ、そろそろ自分なりの意見や考えをまとめなければならないと考えています。が、個人的な意見だとしても、あまりにも情報が少なく、あまりにも広範囲にわたるテーマのため、結論とまではいきませんが、とにかく、今現在考えていることをまとめておきます。

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まず、私は小学生の頃から断固たる原発反対派でした。当時、推進派と反対派でどのようなせめぎ合いがあったのかはわかりませんし、専門的な情報など理解出来る知能もありませんでしたが、子供らしい単純な疑問に誰も答えてくれなかったのです。

「絶対に安全なら、どうして東京や大阪に原発を作らないの?」

中学生になって社会の構造も理解出来始め、地元にも原発(伊方原子力発電所)が出来、高校生になって少しは専門的な文章もわかるようになり、私の中でこの疑問は確信に変わりました。

「原発は絶対に安全なんかじゃない。」

絶対に安全ではなくとも、本気でそう信じているのであれば、電力の大消費地から離れたところに原発を建設したりしないはず。関東であれば、経済効率を考えて東京湾内以外では説明が出来ないし、安全だという理論も破綻してしまいます。愛媛だってなぜ松山でなく伊方なのか・・・。

「わかってて嘘を言っている。」

ただ、超文系の私には、具体的にどこがどう安全でなく、どんな危険がどれだけの影響を与えるのか、どうすべきなのか‥‥理解することも判断する能力もなく、結局危険性を声高に叫ぶこともありませんでしたし、何らかの行動に移すこともありませんでした。

「安全なら東京に作れ!作れないなら危険なんだ!」

というだけでは当時、きっと誰一人振り向いてもくれなかったでしょうし‥。 

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それから数十年間、少なくともマスコミに原発の致命的な事故の記事が載ることもありませんでしたし、チェルノブイリやスリーマイル島の事故も、どこか遠い世界のおとぎ話のように感じてしまい、自分の中では原発は危険な存在であり反対派であるという認識でありながらも、拳でテーブルを叩き、唾を撒き散らしながら激論を戦わせるべき話題ではなくなっていました。

「絶対安全じゃないけど、その危険なことが起こらないのなら、騒ぐ必要もないよな。」

実際、原発が立地している市町村へ行ってみると、周辺とは明らかに異なる立派な施設が充実しており、聞くところによると福祉サービスなども目を見張るレベルであるとか‥。当然住民は大いなる恩恵を受けているであろうし、原発に反対するということは、これら住民が受けている手厚いサービスをも否定することに繋がるということであり、なかなか口に出しにくい雰囲気ではありました。

(たとえそれが電力会社の狙いであったとしても‥)

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 しかし、残念ながら起きてはいけない、起きるはずのなかった大事故が発生してしまいました。元々の反対派にとっては、それみたことか!と鬼の首でも取った騒ぎとなるところかもしれませんが、事態のあまりの深刻さにそれどころではない、といったところではないでしょうか。

私自身も本来なら、「やっぱり原発は安全ではなかったじゃないか」と考えるところなのでしょうが、実は私は今回の福島原発の事故をきっかけに、反対派から慎重派へと、いったん意見の方向性を改めることになります

「安全でないのは以前からわかっていたこと。危険性が立証された今こそ、今後どうすべきかを真剣に考えるべき。」

危険だとわかっていながら嘘をつき、隠蔽し、誤魔化してきた、東京電力をはじめとする電力各社の責任はしっかりと追及されるべきだし、事故原因の解明はもちろん、福島原発自体の今後をどうすべきかは、衆目の中で議論されるべきだと考えますが、 それらと電力行政の今後のあり方の議論は切り離して考えるのがいいのではないかと感じるのです。

・電力各社及び行政機関などのこれまでの責任の明確化と追及
・事故原因の解明
・福島原発及び周辺地域の今後の対応
・原発を含め、今後の電力行政のあり方

「安全でない原発やめろ!原発反対!」

もちろんそれはそれで充分説得力のある意見なのですが、そればかりに集中してしまうことで、他の大事な事柄を見落としてしまってはいけないと考え、いったん慎重派とすることにしたのです。

※ここでいう慎重派とは、原発推進にも原発反対にも軸足を置かず、正確な情報をもとに、今後どうすべきかを慎重に、真剣に考える立場という意味であり、既に起きてしまっている福島原発に対する対応まで慎重にということではありません
 
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まず、全原発を停止し、そして廃止した場合に考えられる事態はどんなものなのか‥‥。推進派の意見をまとめれば、電力不足に陥り、また原油の高騰により電力価格も上昇、場合によっては原油輸送ルートの崩壊で日本は壊滅的な状態に陥る可能性があると‥。

※現在火力発電の主エネルギーはLNGですが、石炭を含め増産は難しいため、頼るとなると原油になるとのこと。

で、実際に全原発が停止し、その分の電力を火力発電で補った場合、どのくらいの原油が必要になるのかを計算してみました。国際エネルギー機関(IEA)の発表によると、原発分として必要になる原油は1日約20万バレルだそうで・・・※1バレル100ドル、1ドル85円で計算

20万バレル×100ドル=2000万ドル
2000万ドル×85円=1,700,000,000=17億円
17億円×365日=6,205億円

私も計算してみて驚きました。年間たった6,200億円程度で全原発分の電力が原油で賄えるのです。なぜ驚いたかというと、政府予算を確認してみたところ、事故前の原発関連予算だけで年間約4,500億円もあるのです。

設定が無茶ですが、同額予算を政府が原油の購入にあてると、年間約1,700億円程度で原発分の電力が賄えてしまうのです。全国民が均等に負担したとしても、年間約1500円程度ですむ計算になります。

おまけに現在、日本国内にある火力発電所の稼働率は30%程度だそうですから、発電設備が不足することもなさそうですし、原油の輸送方法を考えたとしても、現在1日440万バレルを消費している日本が、追加で1日20万バレル分(約4.5%)余計に運ぶのが、それほど困難なこととも思えません。

もちろん増加する分の原油価格だけで電力の原価計算をしてしまうのは無茶苦茶ですし、推進派が心配するように輸送ルートの安全が確保されなければ意味もありませんが、電力不足の懸念を声高に叫ぶような数値ではないなと感じます。

何が何でも原発だという強硬な推進派はともかく、電力不足に対応するため、とりあえず原発を稼働させながら今後の対応を考えてみるべき、という現状推進派の方々は、この数値をどう見られるのでしょうか。

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今度は反対派の方々の意見を見てみましょう。とはいえ、福島原発で現実にこれだけの事故が発生している以上、そこに論理的な武装など必要ないとも言えます。

「危ないから反対。」

それで充分でしょう。極論ですが、

「東電がやる以上反対!」

でも反論の余地はないと思われます。

他にも、私と同じように電力不足など発生しないという方や、再生可能エネルギーへ転換すべきという方など、いろいろな意見をお持ちの方がいらっしゃるようですが、 私としては、どの意見に対しても反対意見を持てない、というのが正直なところです。

ただ、それではせっかく慎重派に鞍替えした意味がありませんので、中でも議論の余地のありそうな、脱原発&再生可能エネルギーへの転換について考えてみようと思います。

福島原発の事故を受け、全世界が脱原発に向かっているのかといえば必ずしもそうではありません。確かにドイツは2020年の完全脱原発を閣議決定し、それへ向けて動き始めていますが、ヨーロッパの原発大国であるフランスなどは今後も積極的に推進していく考えですし、慢性的な電力不足に悩む中国などは、これからもの凄い数(200基以上?)の原発を建設していく計画のようです。

これだけの事故を目の前にしてもさらに推進していくなんていうのは、どう考えても正気の沙汰ではないように感じますが、 今回の事故を海外では、技術的な問題での事故ではなく、人為的な原因による事故とみているのではないか?と私は感じています。

日本のように「原発は絶対に事故を起こさないから絶対に安全だ」というような迷信的発想ではなく、

「原発は危険性をはらんでいるが、それを前提に万全の体制を取っていればそれほど危険なものではない」

と考えているように思われます。あくまでも私の勝手な推測でしかありませんが、メリットとデメリット、リスクとリターンを原則的に考えるヨーロッパでは、充分に考えられる結論ではないでしょうか。

のどに詰まらせてしまう可能性があるからこんにゃくゼリーの販売自体を禁止しよう、というような、YESかNOかの判断だけでなく、危険性を容認したうえで、いかに上手に付き合うかという考え方は充分に有りかと思われます。※原発とこんにゃくゼリーを同列にするのは危険な比較かもしれませんが。

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では実際に脱原発へ向けて動いているドイツはどうなのでしょうか。実は、ドイツは福島原発の事故を受けて脱原発を決めた訳ではありません。もっとそれ以前から決めていたことであり、事故後に最終的な期日を決定したに過ぎないのです。

ということは、事故以前から既に脱原発へ向けて動いていたということですが、ここ最近、推進派を喜ばせるようなニュースがマスコミを賑やかせています。脱原発を進め、再生可能エネルギーへの転換を図っているドイツでは、電力が不足し、フランスから原発で作った電力を輸入することになったとか‥。

私も詳しい情報をもっていないので、明確なコメントはし辛いところですが、確かフランスからは元々電力の輸入はしており、今回の件に関しても、フランスからだけではなく、周辺国からというのが正確な情報だったように思われます。ヨーロッパは地理的なメリットもあり、互いに融通し合うという素地があってのことですから、孤島である日本と同列に語るのは無理がありそうです。

それでも、不足したというのは間違いのない事実であり、推進派の言うように日本が電力不足になっても、他国から融通してもらうことなど不可能であり、現実的に脱原発など出来ないのだというのも一理あるように感じます。

このあたりは如何ともしがたい、島国であるが故の悲哀かもしれません。

ただ、先にも述べたように、ヨーロッパには元々電力を融通し合うという素地があり、そのうえでドイツが脱原発による電力計画を立てていたのだとすれば(普通に考えればそうだと思いますが)、それほど大騒ぎするようなニュースではないのではないでしょうか。

逆に日本はドイツの状況を教訓?とし、想定されるピーク電力を少しくらい越えたくらいでは電力不足にならないような計画を立てておけばいいだけのことのように思われます。

また、脱原発=火力発電の増強ではなく、太陽光や風力、地熱、波力など再生可能エネルギーによる発電を推進することにより、脱原発によるエネルギー不足はどんどん可能性を下げていくことになるでしょう。

なお、再生可能エネルギーは発電量に波があり、まだまだ実用化段階ではないという話もありますが、政府が原発推進のため、他の方式の推進に決して積極ではなかったということもあり、確かにすぐ原発分を補うほどにはなり得ないと思いますが、政府のお墨付きをもらい、国民の支持を得、日本の技術力をもってすればそれほど遠くない将来には・・・と思えなくもありません。

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長くなってしまいましたが、読んでいただければおわかりのように、現在の私は、慎重派という位置にいる認識ながらも、再び反対派へのベクトルを強めています。それも「脱」原発ではなく、「反」原発に近いレベルです。このままだとなし崩し的に反対派に合流してしまいそうです。

推進派の方々、お願いです。私の子供の頃からの問いに誰か答えてください。
 
「絶対に安全なら、どうして東京や大阪に原発を作らないの?」

2012年2月22日水曜日

何ですかそれ?自己責任じゃないのか!

「安全・安心・健康」非常に耳触りのいい言葉であり、実際、一般的な社会生活において、非常に重要な項目であることは間違いありません。しかし、最近は行き過ぎの感があり、批判どころか疑問を呈することさえ許されない雰囲気があります。

こんにゃくゼリーを子供や老人がのどに詰まらせ、命を落とすという事件があり、国会の場でさえ規制を訴えるというような事態になりました。結局、具体的な規制は行われませんでしたが、当たり前です。毎年正月に餅をのどに詰まらせて無くなる老人が多数いますが、じゃぁ餅を規制しようなんて誰も言わないじゃないですか。実際、食べ物をのどに詰まらせて命を落とす事例は年間数千件もあり、そのうちこんにゃくゼリーはごくわずかでしかないのです。

ではなぜこんな些細な事件が国会でまで取り上げられることになったのか‥。もちろん節操のないマスコミが取り上げ過ぎというのもありますが、実は欧米ではゼリーなどにこんにゃくを使用することが禁止されているのです。だから、という確証はありませんが、欧米で規制されているから日本でも‥という一連の流れに従った部分というのも、多々あるのではないかと思えてなりません。が、元々欧米ではこんにゃくなんて食べてないんですから、日本がそれと同列に議論することがおかしいのです。


さらに、子供が使い捨てライターで火遊びをし、焼死する事件が相次ぎ、簡単には火が付かない仕組みを組み込むことが義務付けられました。 現在販売されている使い捨てライターは、大人の男でさえなかなか着火出来ないレベルであり、子供どころかお年寄りや女性も非常に使い辛くなってしまいました。私でも墓参りの際、線香に火をつけるため、数十秒間火をつけたままにしておくことは、まず不可能だと思います。※どのくらい使い辛いか、実感出来ないかたはコンビニなどで試してみてください。恐らく信じられないレベルに驚いてしまうことでしょう。

他にもあげ始めるとキリが無いほど、「安全・安心・健康」を盾にした信じられない規制が次々と出てきています。そして私が一番不満に思っているのは、「安全・安心・健康のためだから仕方ない」という世間の風潮についてなのです。

もちろん「安全・安心・健康」のためを考えることは大切です。が、「自己責任」という言葉も忘れてはいけないと思うのです。こんにゃくゼリーがのどに詰まるかもしれない、というのは大人であれば誰でも一目でわかります。それでも食べてのどに詰まらせてしまうのは、メーカーやこんにゃくゼリーが悪いのではなく、わかっていながら食べた本人ではないのでしょうか。

いやいや、子供にはわからない、なんて言う人がいますが、それがわからないような子供に与える大人に問題があるとは思えないのでしょうか。使い捨てライターだって同じこと。子供が遊んで火が付いたら大変だから規制するのではなく、子供が勝手に遊べるようなところにライターを置いておく親に問題があるのではないでしょうか。規制するならライターではなく、親を規制すべきです。

その昔、インターネットは犯罪に利用されるから規制すべきだなんて声もありましたが、じゃ、電話が犯罪に(例えば脅迫電話など)使われるからと規制されたりしたでしょうか。もう、馬鹿もほどほどにしてくれと言いたい気分です。

大企業に対して消費者は弱い立場だから守らねばならないという考えもわかりますが、だからこそ消費者を強く育てるという考え方は出来ないのでしょうか。何事にも自己責任が伴うんだということも、もっと理解させていくべきだと思うのです。

ホットコーヒーを頼んでおいて、自分でこぼしておきながら、コーヒーが熱すぎたから火傷した!弁償しろ!って、何ですかそれ?飛行場の近くに自分が望んで家を建てておきながら、騒音で苦しめられてるって、何ですかそれ?横断歩道でもないところを交通ルール無視して渡っておいて、はねられたら車が悪いって、何ですかそれ?

 「安心・安全・健康」の名のもとに、規制規制で国民を甘やかしてきたつけが今になって表面化してきているような気がします。日本って、いつから「自己責任」という言葉が軽く見られたり無視されたりするような社会になったんでしょうか。

2012年2月17日金曜日

【電子書籍】電子書籍ってどうなんだ?どうなるんだ?

別に秘密にしていたわけではありませんが、実は1年ほど前、会社で電子書籍の出版を開始しようというプロジェクトがあり、ePub形式での販売を目指して着々と準備を進めていました。月刊での発行ですが、半年ほどはプロモーションということで、広告も無料掲載のため大手企業や団体からの出稿もいただき、さぁこれから!という時に3.11の大震災が起きました。

当社が直接震災の被害を受けたわけではありませんが、深刻な影響を受けているクライアントもあり、それ以前にそんな雰囲気ではありませんでしたから、当然のように一旦プロジェクト自体を停止しました。そしてそろそろ1年が経過しようとしていますが、私を含め、社内外からもプロジェクトの再始動を求める声はあがっていません。

この1年、iPhoneやAndroidなどのスマートフォン、iPadなどのタブレット端末が予想を上回る速度で普及してきており、電子出版を実施する環境としては願ったり叶ったりな状況になりつつあります。さらにこの間、ePubフォーマットは2から3へバージョンアップし、縦書きやルビなどの日本語環境にも適応してきました。ビジネスとして取り組むにはまさにグッドタイミングなはず‥。

実際、アメリカで大人気のAmazonの電子書籍リーダーKindleが、ついに日本国内での販売開始が決定するなど、ニュースなどでも電子書籍の話題が頻繁に取り上げられるようになってきましたが、マーケットとして盛り上がっているとはとても思えません。ソニーは3年も続けてきたPSP向けの電子書籍販売から年内には完全撤退するとの発表を行いました。

時代の流れからすると、電子書籍はアメリカが既にそうであるように、デジタル文化の中心に位置しているはずなのに、なぜ日本ではこのような状況なのでしょう。いくつかの側面からその理由を考えてみましょう。



●決め手に欠けるフォーマット


まず単純に、電子書籍のフォーマットが標準化されていないという点があります。主なものだけでも
  • EPUB:アメリカでは標準となりつつあるXMLベースのフォーマット。
  • XMDF:シャープが推進しているフォーマット。日本では多くの大手企業がサポート。
  • .book:日本のボイジャーが開発したフォーマット。コミックに多く利用。
  • AZW:AmazonのKindle向けフォーマット。
  • PDF:云わずと知れたAdobeのフォーマット。
などがあげられます。もちろん規格がたくさんあることも普及の妨げになっていると思われますが、どの形式も一長一短といったところで、これがベスト!とまではいかなくとも、ベターとさえ思えない感じなのです。※KindleのAZWはまだ未経験ですが。

なぜかというと、元々紙の書籍自体が多様であり、小説と雑誌とマンガと写真集と百科事典が、1つの同じフォーマットに乗るはずもなく、単純に標準化出来ないという根本的な問題があります。

ただ、これは解決方法がないわけではありません。デザインやレイアウトは多様なままで、リーダーが各種フォーマットに対応出来るようにすればいいだけの話です。あとは課金や著作権の取扱いなどを標準化出来ればいいのでしょうが、まぁ、そこが一番の問題点だったりするわけです。


●魅力に欠けるソフト

既にこれだけ普及している紙の書籍を、電子書籍へ移管させていくには、その動機付けとなるだけのメリットが必要になります。確かに、
  • 多量に購入しても保管場所に困らない。
  • 手軽に何冊でも持ち歩くことが出来る。
  • 流通コストがカットされるため安価になる。
  • 文字の拡大縮小など読む人の環境に合わせることが出来る。
  • 動画や音声などを組み込んでインターラクティブな書籍が実現可能。
などなど、たくさんのメリットが謳われていますが、果たしてこれらは動機付けになるほどのメリットなのでしょうか‥。あくまでも私の個人的な感覚ですが‥
  • 保管場所:確かにそうですが、コレクションを楽しむという部分、棚いっぱいに並んだ本の背表紙を眺めるだけでもうれしいという人たちにとってはデメリットでしかありません。
  • 持ち歩き:電子書籍はそれを入れておくためのハードウェア自体の重さを無視出来ません。
  • 安価:※後述します
  • 拡大縮小:確かにこういう機能があれば便利ですが、どうしても必要というほどではありません。
  • 動画や音声:現状としての電子書籍にそれを求めてはいません。
どれをとってみても、紙の書籍でなく、電子書籍を選ぶだけの理由にならないのです。


●将来のビジョンを見いだせない出版社

国内の大手出版社や流通業界、さらに印刷や書店などから、具体的な将来のビジョンが見えてきません。書籍の出版・流通・販売については確立されたビジネスモデルがあるため、その渦中にいる方々にとって電子出版は、自分たちの既得権益を脅かす悪しきライバルとしか映っていないのでしょうか。実際ここに、驚くような事実があります。

一般書籍の場合、「著作→編集→印刷→出版→流通→書店→消費者」という行程ですが、電子書籍だと「著作→編集→出版→WEB書店→消費者」、さらに突き詰めれば「著作→消費者」という図式にまで発展させることが出来ます。

紙代不要、印刷不要、製本不要、荷造り不要、運搬不要、在庫不要‥。どう考えても電子書籍は安価で販売出来るようになるはずなのです。では現在、一般書籍と電子書籍はどのくらいの価格差があるか、皆さんはご存じでしょうか。以下、一般書籍の価格を「Amazon」から、電子書籍の価格を「電子書籍販売サイトhonto」からピックアップして比較してみましょう。


ノンフィクション 「父・金正日と私 金正男独占告白」五味洋治(文藝春秋)
書籍:1470円、電子書籍:1155円  価格差:315円 割引率:約23%


コミック 「社長 島耕作(9)」弘兼 憲史(講談社)
書籍:570円、電子書籍:525円  価格差:45円 割引率:8%


雑誌 「日経トレンディ2012年3月号」(日経BP社)
書籍:550円、電子書籍:550円  価格差:0円 割引率:0%

正直、空いた口がふさがりません。確かにこれまで売価の何%と設定していた著作権料などは、電子書籍化するにあたっては考慮し直さなければならないかもしれませんが、いくらなんでももっと価格差が付いてもいいんじゃないでしょうか。 なんでも聞くところによると、紙の書籍の売り上げを減らすわけにはいかないから、電子書籍をあまり安く出来ないんだとか‥。要するに電子書籍の売り上げを、紙の書籍の売り上げに上乗せにしようと考えているということのようです。

いくら私だって紙の書籍が早々無くなるとは思えませんし、両方を同時進行で進めることで、どうしたって電子書籍もそれなりの価格になってしまうことも理解出来ないではありません。が、では大手出版社は10年後20年後も今と同じだと考えているのでしょうか。具体的にどういう社会になっていると想定しているのでしょうか。もし具体的に想定出来ているのであれば、既にそれへ向けて動き出していなければならないと思うのですが、この価格差無し、あるいはほとんど無いような状態がそこへ向けてのアプローチなんでしょうか。

実際にAmazonでの電子書籍の販売が開始されてみないと確かなことはわかりませんが、いまだにAppleの「ibook store」やGoogleの「ebook store」では日本の書籍が販売されてないことからしても、日本の出版業界は時代の変遷に追いつけていないと判断せざるを得ません。

家庭用ビデオデッキやゲーム機がそうであったように、見たい!遊びたい!と思われるソフトがなければハードウェアなんて売れませんし、iTunesストアの音楽販売で、デジタルデータをCDと同じ価格帯で売っていて、今ほどの人気になったでしょうか?

ぜひ出版業界の方々には、現在そしてこれからの社会の変化を素直に見つめ、書籍なり出版なりがどうあるべきなのかを真摯に検討してもらいたいと切に願っています。そうすることにより、電子書籍だけでなく、衰退が言われはじめて久しい出版業界全体が底上げされるのではないでしょうか。

そうなれば、うちのように弱小企業の小さなプロジェクトも、やっと日の目を見ることが出来ようというものです。

2012年2月15日水曜日

人生を太く生きる計算式

人にとって、眠るという行為が非常に大事であるということは、誰もが理解していることだと思います。改めて言うまでもありませんが、眠らないと死んじゃいますからね。

ところで、皆さんは毎日、いったいどのくらい眠っているでしょうか。5時間眠れば大丈夫という人もいれば、8時間は眠らないと次の日が辛い‥‥なんて人もいるでしょう。では、それを一生で計算してみるとどうでしょう。たとえば1日8時間の睡眠時間で90歳まで生きるとすると‥‥1日24時間のうち、3分の1眠ってるわけですから、単純に合計すると何と30年分も眠っていることになるのです。3年寝太郎どころか、30年寝太郎です。

私は学生時代、このことを考えると眠ることがとてももったいない気がして、何とか眠る時間を減らせないかと考えるようになりました。だって青春真っ只中、やりたいことだらけで時間がいくらあっても足りない20歳代の10年間のうち、約3.3年分も眠って過ごしてしまうなんて、考えただけでも恐ろしいじゃないですか。

そこでまずは計算してみました。1日8時間眠る人を標準と考えると、起きて活動している時間は1日16時間あります。1日4時間しか眠らない人は活動時間が1日20時間ですから、4日もすれば4時間睡眠の人は8時間睡眠の人より1日多く活動していることになります。


ということは‥このまま10年が経過すると、4時間睡眠の人は20代の10年間がなんと12.5年間も活動している(生きている)ことになるのです。さらに枠を広げて、20代~30代の20年間だと25年分になります。若く元気で、やりたいことが何でも出来る青春時代をこんなに長く生きられるのであれば、90歳まで生きる寿命が85歳に縮まっても何ら問題ないじゃないですか。

今、私は47歳ですが、 20歳の頃から4時間睡眠を続けていたとすると、活動時間年齢は54歳となります。でも実年齢が47歳ということは、既に7年分も人より多く生きてきていることになるのです。

まぁ、実際にこの理論通り完全な4時間睡眠を続けることは無理にしても、8時間を7時間に減らせれば‥7時間を6時間に減らせれば‥5時間に減らせれば‥どんどん若い時間をより多く過ごせるようになります。

ただ、慢性的な睡眠不足に陥り、健康を害することで、80歳寿命どころか50歳や40歳で亡くなってしまうという危険性も充分にはらんでいるということを忘れてはいけません。 何事も加減が大事、ってことなのでしょうが、でも、健康に注意し、毎日8時間睡眠をとっていても若くして‥なんてことが当たり前に発生している現状を考えると、細く長く生きようとするのではなく、とにかく今を太く、そしてもしかしたら短いかもしれないが、出来るだけ長く生きよう!という考え方があってもおかしくはないと思うのです。


私・・・ですか?私は完璧ではないですが、当然極力この理論通りに生きようとしています。で、これまた当然のように健康と言えるような状態ではなく、果たしてどこまで生きながらえることが出来るものやら・・・身をもって実験中、というところでしょうか。

2012年2月5日日曜日

親友ってそんなものなのか?

先日、FM放送のティーン向け番組が「親友とは何か?」というテーマでリスナーから意見を募集していました。要するに、友達と親友の境目に線引きをすることで、「親友」の定義付けをしようというもの。

番組中に寄せられた声は概ね、何でも話が出来るとか、決して裏切らないとか、嘘をついたり隠し事をしないとか‥‥そういうものが大半を占めていました。先輩の声として大人たちからもメッセージが届いていましたが、基本的には似たようなものでしたから、世間一般の考え方としてはこれが平均的なところなのでしょう。

番組でもこれらをまとめることで結論とし、更に一歩踏み込むことはありませんでした。パーソナリティーも同じ意見だったのか、それともティーン向けなのでこれでよしとしたのか、真意のほどはわかりませんが、ワイワイ楽しければOKという近頃のメディアのあり方そのままのように感じて、残念で仕方ありませんでした。

確かに私も10代の頃は似たようなものだったかもしれませんが、だからこそ、大人が主導するメディアではもっと深いところまで踏み込み、若い世代に問題意識を投げかけて欲しかったのです。

では、私のいう問題意識というのはどういうことなのかということですが、その前に、私の中での「親友」とは何かをまとめてみます。

私は対人関係を大まかに4つに分類しています。 ※常に意識している訳ではありません。
  1. 知り合い: 顔と名前が一致する。
  2. 友達: 私的な内容も遠慮なく話し合え、互いに信じあえる関係。
  3. 親友: 相手のためなら自分をある程度犠牲にすることも厭わない間柄。
  4. 大親友: 肉親と同等。自らを犠牲にすることに躊躇ない関係。
私の中では、「親のような友達」または「親戚のような友達」が「親友」です。上記の分類でいえば、前者が大親友で、後者が親友ということになります。

親が子供を思う時、自分の命がどうなるかなど関係ありません。言葉にすると大げさですが、子供を守るためならたとえ火の中だろうと水の中だろうと、躊躇なく飛び込むことが出来ます。世間的にはそうでない親もいるようですが、少なくとも私は(もしかしたら一瞬躊躇するかもしれませんが)飛び込みます。

友達関係においても、そこまで深い繋がりがあるのが「大親友」であろうと考えています。太宰治の「走れメロス」に登場する友人関係がまさにこれにあたるでしょうか。

これに比べ、命までは犠牲に出来ないが、例えば自分の財産が無くなることくらいなら問題ないとか、人から後ろ指差されるようになっても構わないと思えるのが、「親戚のような友達」である「親友」となります。


私が番組を残念だと思ったのは、この私の考え方とは違う結論だったからではありません。 寄せられた意見のほとんどが受身であり、自分本位だったからなのです。


(自分が)何でも話を出来、(自分が)裏切られず、(自分が)嘘をつかれない・・・

親友を自分に都合のいい存在だと考えていることが驚きであり、情けなくもありました。そんなのは親友以前に友達でもありません。単に自分に利益をもたらす便利な存在が親友だなんて‥。

恋愛でもそうですが、自分が何を得られるかではなく、何をどれだけ与えることが出来るのかを考え、思い悩むのが真の「愛情」であり「友情」であると私は考えます。実際には10代の若者たちも経験を積むことで理解出来るようにはなると思いますが、だからこそ番組では、「そうじゃないだろ?もっとよく考えてみろよ!」と投げかけて欲しかったのです。

当のパーソナリティー本人とは面識もあるため実名は控えますが、もし今後も同じような企画を実施するのであれば、ぜひもう一歩踏み込んだ議論へ持ち込んでもらいたいと切に願っています。

2012年1月31日火曜日

【経済】天然由来に激しい嫌悪感

近頃、健康食品や化粧品などのテレビコマーシャルなどで、よく「天然由来」とか「天然由来成分」という言葉が使われていますが、私はこの言葉を聞くたびに違和感を覚え、当該製品に対して嫌悪感さえ抱いてしまいます。




1:天然品や自然成分ではなく、なぜ由来なのか
このような表現をするということは、当然、畑で採れた大根や、海で釣りあげたサンマのような、「自然物そのものではないモノ」が含まれていることは明白であり、それを誤魔化すための方便だと思われます。「天然モノですよ」と言ってしまうと薬事法や景品表示法に引っかかってしまうため、ギリギリの表現で、消費者が勝手に天然モノであると勘違いしてくれることを狙っているのでしょう。
 
2:なぜ自然物=善、合成物=悪という根拠のない図式を押しつけるのか
そういう勘違いを誘うということは、天然モノや自然物が全て善で、合成物が全て悪であるという前提に立っていると思われますが、本当にとんでもない話です。山を歩いていて漆にかぶれたことがないのでしょうか?フグやキノコの毒にあたって人が亡くなったというニュースを聞いたことがないのでしょうか?トリカブトで殺人を疑われた事件を知らないのでしょうか?自然界には毒物が山のように存在しているというのに、おかしな話です。

3:自社製品に注意しろと言っているのか?
上記1と2から考えると、コマーシャルで「天然由来」を押し出しているということは、そう言わざるを得ない「何がしかの化学合成物質」が含まれているということを強調しているようにしか、私には思えません。要するに、化粧品のコマーシャルで「当社の化粧品には、何らかの化学合成物質が含まれているんですよ!どうですか?素敵でしょう?」とわざわざアピールしているとしか思えず、相当な違和感を感じてしまうのです。



時期的には、「茶のしずく」事件が表面化した頃からこの表現が使われるようになっているように感じますが、 この言葉を用いることで、余計に消費者に警戒感を抱かせる可能性は考慮されていないのでしょうか。それとも、警戒感を抱くような消費者層を最初からターゲットとしていない、ということなのでしょうか。

私自身は、無農薬野菜や添加物不使用食品の摂取こそが健全な心身を形作るという考えでありますが、現代生活においてそれだけでは生きていけない現実も充分に認識しており、厳格でストイックなエコロジストという訳ではありません。農薬を含め一定レベルの合成物は必要だと考えますし、その摂取もやぶさかではありません。子供の頃からのアトピー性皮膚炎で現在も苦しめられながらも、カップ麺のケミカルな味わいが大好きなくらいですから‥。

ただ、今回この話題を取り上げたのは、食品をはじめいろいろな商品について、自然回帰をと願う多くの人たちの想いを逆手に取って、売り上げを伸ばそうというコマーシャルのあり方に違和感を覚え、激しく嫌悪感を感じているためです。


画像:フリー素材屋Hoshino提供

2012年1月18日水曜日

地球外生物を地球のレベルで語るな

科学系のニュースで、●●という星にはアミノ酸があるので生物が存在する可能性が出てきたとか、数千度という灼熱地獄のため生物は存在しないことが判明したとか、地球外生物についての話題が時々出ています。地球外生物の存在を追求するという、非常にロマンあふれる研究をしている方々がいるようですが、そこから導き出されている、要するにニュースになっているような話を聞くたび、私は激しい不満に襲われるのです。


確かにアミノ酸の有無は、生物の存在確認には非常に重要な要素だと思われますが、それは地球上に存在する生物、地球上で共有されている知識の範囲内の話ではないでしょうか。「宇宙の生物=地球上の生物」と定義付けしたうえでの話ならそれでもいいのですが、いや、だとすればなおさら、なぜそのような無意味な定義付けをするのでしょうか。専門家ではない私にはどうしても納得が出来ないのです。

例えば、呼吸もしないし声を出すこともない、動くこともないし成長もしない、 手で触ることも出来ないし目で見ることも出来ない‥‥そんな生物がいてはいけないのでしょうか。現在の地球の知識では確認出来ていない物質、把握出来ていない法則、想定も出来ない理論‥‥そのようなものが、この広い宇宙に存在していないという前提なのでしょうか。

現在、我々人間の目に見える範囲や耳で聞こえる範囲に限界があることは一般人でも知っていますし、アインシュタインの相対性理論が、時間や空間の原理を完全に説き明かしているかどうかの確認さえ出来ていません。それであればわざわざ自分から視野を狭くしたりせず、言うなれば人知を超えた世界が我々の周りには存在しているという認識に立ったうえで、地球外生物の研究をしていくべきではないかと私は思うのです。

もちろん、現代科学で調べられないものは、見つけることも、その存在証明も確認も出来ないでしょう。でも、そのつもりで探し続けるのと、初めから存在しないものとしているのでは、導き出される結果も違ったものになってしまうのではないでしょうか。

「科学的に証明できないから存在しない」のではなく、「存在を証明出来ないのが科学」であり、科学を超えた存在こそが地球外生物なのではないかと、私は思っています。

2012年1月16日月曜日

未確認飛行物体UFO

中学生の頃、英語塾の帰り道、友達数人と立ち話をしていると、薄暗くなった山際の空を小さな光の点が移動しているのが目に入りました。友達に声をかけると、その光の点は急角度で降下し、再び水平移動に移りました。振り返った友達も「あれ?」と驚きの声をあげたその時、光の点はフッと我々の視界から消えてしまいました。

私とその友達は「UFOだ!」と大騒ぎでしたが、その場にいながら見逃してしまった連中は、「UFOなんているわけない」「飛行機じゃない?」「何かの光を見間違えたんだろう」と全く信用する気配がありません。私たちは「いや、あの動きは飛行機では無理だ。絶対にUFOだ!」と力説したのですが‥。

ところで、このような論争は古今東西、日本中で、いや世界中で何度となく交わされてきたことでしょう。 一時期はテレビのバラエティやドキュメンタリーなどでも大いに取り上げられ、矢追順一氏などが一躍有名人となったこともありました。

まぁ、そんなUFOブームの経緯などどうでもいいのですが、私はその頃から大いに疑問に思っていることがあります。



UFOとは、Unidentified Flying Objectの略であり、日本語では皆さんご存じの通り「未確認飛行物体」となります。ということは、例えば飛行機のライトを見誤ったのであったとしても、それが飛行機のライトであると確定するまでは、あくまでも未確認飛行物体、要するにUFOであって、確定していない時点でUFOではないと断言するのは非常におかしな話だと思うのです。

一般に、「UFO=空飛ぶ円盤」というような認識を持っているため、 このように矛盾した論争がさも当たり前のように交わされてしまうのではないでしょうか。

もちろん、一般には 「UFO=空飛ぶ円盤」という認識が大多数のため、既に言葉の意味が変異してしまったのだとすれば、全くの誤用であるとも言い難いのですが、月刊ムーを創刊号から数年間買い続けるという少年時代を過ごした私としては、ここは間違えて欲しくない重要なポイントなのです。

ということで、まとめ。

●UFO=未確認飛行物体=飛行機かも円盤かもロケットかも風船かもわからないが、とにかく飛んでいる物体。
●空飛ぶ円盤=一般には異星人など地球外生物の乗り物として認識されている飛行物体。

とまとめてみたものの、実はまとめになっていない現実‥。だって空飛ぶ円盤自体が本当に異星人の乗り物なのか確認されていないため、地球上では通常あり得ないアダムスキー型をしていようが、人知を超えた急角度で飛行経路を変えようが、突然目の前で消えてしまおうが、やっぱり未確認飛行物体でしかないのです‥。

2012年1月10日火曜日

夜、爪を切ると親の死に目に会えない

「夜、爪を切ると親の死に目に会えない」という迷信があります。

これの言わんとするところをネットで調べてみると、偉い先生たちも含め、昔は照明が弱いため、爪以外の部分を傷付けてしまい、そこからばい菌が入って云々・・・という意見ばかり。確たる根拠を基にしたものではなく、恐らくそうであろうというもの。

もちろんその意見を否定するものではありませんが、私はどうにも納得がいきません。確かに暗がりで爪を切るのは危険だし、そこからばい菌が入る可能性もそれなりにあると思われます。昔は今のように安全な爪切り具もなかったでしょうし・・・。でも、もっと危険性の高い行為はいくらでもあるのだから、わざわざ爪切りを取り上げ、長年にわたって言い伝える必要性が私には感じられないのです。


では、いったいこの迷信は何を教訓として伝えようとしているのか・・・。私は自らの経験から、夜爪を切るという行為は「もし~」ではなく「いつも~」ではないかと考えました。

夜は暗くて爪を切りにくいとわかっているのにいつも夜に爪を切るのは、夜にしか爪を切る時間がないから。要するにお天道様の出ている間は仕事なり遊びなりに没頭していて、爪を切るなどという急ぎでない作業をする余裕が取れるのは夜のみということであり、そんな乱れた生活をしていると必ずや体調を崩し、結局親より早死にしてしまうということではないかと。

もう10年以上前ですが、深夜残業や徹夜、休日出勤が当たり前で、ひどい時は週(7日間)の合計睡眠時間が10時間あまりというような生活をしていた頃、深夜というか早朝の暗がりの中、睡眠不足でぼんやりしたまま爪を切りながら、

「ああ、夜に爪を切ると親の死に目に会えないというのは、 こういうことを言うのか。確かにこのまま続けてたら死はもう目の前だな。」

と、一人合点をした次第です。

※結局この後、椎間板ヘルニアを患って2ヶ月半という長期入院をし、またその際にダメージを負った肝臓はいまだに健康診断で毎年異常値を叩き出し続けています・・・。

まぁ、これはあくまでも私個人の体験からくる考えであり、先の意見を覆すほどの強い要素があるわけではありませんが、私としてはこちらの方がしっくりくるのです。