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2012年2月22日水曜日

何ですかそれ?自己責任じゃないのか!

「安全・安心・健康」非常に耳触りのいい言葉であり、実際、一般的な社会生活において、非常に重要な項目であることは間違いありません。しかし、最近は行き過ぎの感があり、批判どころか疑問を呈することさえ許されない雰囲気があります。

こんにゃくゼリーを子供や老人がのどに詰まらせ、命を落とすという事件があり、国会の場でさえ規制を訴えるというような事態になりました。結局、具体的な規制は行われませんでしたが、当たり前です。毎年正月に餅をのどに詰まらせて無くなる老人が多数いますが、じゃぁ餅を規制しようなんて誰も言わないじゃないですか。実際、食べ物をのどに詰まらせて命を落とす事例は年間数千件もあり、そのうちこんにゃくゼリーはごくわずかでしかないのです。

ではなぜこんな些細な事件が国会でまで取り上げられることになったのか‥。もちろん節操のないマスコミが取り上げ過ぎというのもありますが、実は欧米ではゼリーなどにこんにゃくを使用することが禁止されているのです。だから、という確証はありませんが、欧米で規制されているから日本でも‥という一連の流れに従った部分というのも、多々あるのではないかと思えてなりません。が、元々欧米ではこんにゃくなんて食べてないんですから、日本がそれと同列に議論することがおかしいのです。


さらに、子供が使い捨てライターで火遊びをし、焼死する事件が相次ぎ、簡単には火が付かない仕組みを組み込むことが義務付けられました。 現在販売されている使い捨てライターは、大人の男でさえなかなか着火出来ないレベルであり、子供どころかお年寄りや女性も非常に使い辛くなってしまいました。私でも墓参りの際、線香に火をつけるため、数十秒間火をつけたままにしておくことは、まず不可能だと思います。※どのくらい使い辛いか、実感出来ないかたはコンビニなどで試してみてください。恐らく信じられないレベルに驚いてしまうことでしょう。

他にもあげ始めるとキリが無いほど、「安全・安心・健康」を盾にした信じられない規制が次々と出てきています。そして私が一番不満に思っているのは、「安全・安心・健康のためだから仕方ない」という世間の風潮についてなのです。

もちろん「安全・安心・健康」のためを考えることは大切です。が、「自己責任」という言葉も忘れてはいけないと思うのです。こんにゃくゼリーがのどに詰まるかもしれない、というのは大人であれば誰でも一目でわかります。それでも食べてのどに詰まらせてしまうのは、メーカーやこんにゃくゼリーが悪いのではなく、わかっていながら食べた本人ではないのでしょうか。

いやいや、子供にはわからない、なんて言う人がいますが、それがわからないような子供に与える大人に問題があるとは思えないのでしょうか。使い捨てライターだって同じこと。子供が遊んで火が付いたら大変だから規制するのではなく、子供が勝手に遊べるようなところにライターを置いておく親に問題があるのではないでしょうか。規制するならライターではなく、親を規制すべきです。

その昔、インターネットは犯罪に利用されるから規制すべきだなんて声もありましたが、じゃ、電話が犯罪に(例えば脅迫電話など)使われるからと規制されたりしたでしょうか。もう、馬鹿もほどほどにしてくれと言いたい気分です。

大企業に対して消費者は弱い立場だから守らねばならないという考えもわかりますが、だからこそ消費者を強く育てるという考え方は出来ないのでしょうか。何事にも自己責任が伴うんだということも、もっと理解させていくべきだと思うのです。

ホットコーヒーを頼んでおいて、自分でこぼしておきながら、コーヒーが熱すぎたから火傷した!弁償しろ!って、何ですかそれ?飛行場の近くに自分が望んで家を建てておきながら、騒音で苦しめられてるって、何ですかそれ?横断歩道でもないところを交通ルール無視して渡っておいて、はねられたら車が悪いって、何ですかそれ?

 「安心・安全・健康」の名のもとに、規制規制で国民を甘やかしてきたつけが今になって表面化してきているような気がします。日本って、いつから「自己責任」という言葉が軽く見られたり無視されたりするような社会になったんでしょうか。

2012年2月17日金曜日

【電子書籍】電子書籍ってどうなんだ?どうなるんだ?

別に秘密にしていたわけではありませんが、実は1年ほど前、会社で電子書籍の出版を開始しようというプロジェクトがあり、ePub形式での販売を目指して着々と準備を進めていました。月刊での発行ですが、半年ほどはプロモーションということで、広告も無料掲載のため大手企業や団体からの出稿もいただき、さぁこれから!という時に3.11の大震災が起きました。

当社が直接震災の被害を受けたわけではありませんが、深刻な影響を受けているクライアントもあり、それ以前にそんな雰囲気ではありませんでしたから、当然のように一旦プロジェクト自体を停止しました。そしてそろそろ1年が経過しようとしていますが、私を含め、社内外からもプロジェクトの再始動を求める声はあがっていません。

この1年、iPhoneやAndroidなどのスマートフォン、iPadなどのタブレット端末が予想を上回る速度で普及してきており、電子出版を実施する環境としては願ったり叶ったりな状況になりつつあります。さらにこの間、ePubフォーマットは2から3へバージョンアップし、縦書きやルビなどの日本語環境にも適応してきました。ビジネスとして取り組むにはまさにグッドタイミングなはず‥。

実際、アメリカで大人気のAmazonの電子書籍リーダーKindleが、ついに日本国内での販売開始が決定するなど、ニュースなどでも電子書籍の話題が頻繁に取り上げられるようになってきましたが、マーケットとして盛り上がっているとはとても思えません。ソニーは3年も続けてきたPSP向けの電子書籍販売から年内には完全撤退するとの発表を行いました。

時代の流れからすると、電子書籍はアメリカが既にそうであるように、デジタル文化の中心に位置しているはずなのに、なぜ日本ではこのような状況なのでしょう。いくつかの側面からその理由を考えてみましょう。



●決め手に欠けるフォーマット


まず単純に、電子書籍のフォーマットが標準化されていないという点があります。主なものだけでも
  • EPUB:アメリカでは標準となりつつあるXMLベースのフォーマット。
  • XMDF:シャープが推進しているフォーマット。日本では多くの大手企業がサポート。
  • .book:日本のボイジャーが開発したフォーマット。コミックに多く利用。
  • AZW:AmazonのKindle向けフォーマット。
  • PDF:云わずと知れたAdobeのフォーマット。
などがあげられます。もちろん規格がたくさんあることも普及の妨げになっていると思われますが、どの形式も一長一短といったところで、これがベスト!とまではいかなくとも、ベターとさえ思えない感じなのです。※KindleのAZWはまだ未経験ですが。

なぜかというと、元々紙の書籍自体が多様であり、小説と雑誌とマンガと写真集と百科事典が、1つの同じフォーマットに乗るはずもなく、単純に標準化出来ないという根本的な問題があります。

ただ、これは解決方法がないわけではありません。デザインやレイアウトは多様なままで、リーダーが各種フォーマットに対応出来るようにすればいいだけの話です。あとは課金や著作権の取扱いなどを標準化出来ればいいのでしょうが、まぁ、そこが一番の問題点だったりするわけです。


●魅力に欠けるソフト

既にこれだけ普及している紙の書籍を、電子書籍へ移管させていくには、その動機付けとなるだけのメリットが必要になります。確かに、
  • 多量に購入しても保管場所に困らない。
  • 手軽に何冊でも持ち歩くことが出来る。
  • 流通コストがカットされるため安価になる。
  • 文字の拡大縮小など読む人の環境に合わせることが出来る。
  • 動画や音声などを組み込んでインターラクティブな書籍が実現可能。
などなど、たくさんのメリットが謳われていますが、果たしてこれらは動機付けになるほどのメリットなのでしょうか‥。あくまでも私の個人的な感覚ですが‥
  • 保管場所:確かにそうですが、コレクションを楽しむという部分、棚いっぱいに並んだ本の背表紙を眺めるだけでもうれしいという人たちにとってはデメリットでしかありません。
  • 持ち歩き:電子書籍はそれを入れておくためのハードウェア自体の重さを無視出来ません。
  • 安価:※後述します
  • 拡大縮小:確かにこういう機能があれば便利ですが、どうしても必要というほどではありません。
  • 動画や音声:現状としての電子書籍にそれを求めてはいません。
どれをとってみても、紙の書籍でなく、電子書籍を選ぶだけの理由にならないのです。


●将来のビジョンを見いだせない出版社

国内の大手出版社や流通業界、さらに印刷や書店などから、具体的な将来のビジョンが見えてきません。書籍の出版・流通・販売については確立されたビジネスモデルがあるため、その渦中にいる方々にとって電子出版は、自分たちの既得権益を脅かす悪しきライバルとしか映っていないのでしょうか。実際ここに、驚くような事実があります。

一般書籍の場合、「著作→編集→印刷→出版→流通→書店→消費者」という行程ですが、電子書籍だと「著作→編集→出版→WEB書店→消費者」、さらに突き詰めれば「著作→消費者」という図式にまで発展させることが出来ます。

紙代不要、印刷不要、製本不要、荷造り不要、運搬不要、在庫不要‥。どう考えても電子書籍は安価で販売出来るようになるはずなのです。では現在、一般書籍と電子書籍はどのくらいの価格差があるか、皆さんはご存じでしょうか。以下、一般書籍の価格を「Amazon」から、電子書籍の価格を「電子書籍販売サイトhonto」からピックアップして比較してみましょう。


ノンフィクション 「父・金正日と私 金正男独占告白」五味洋治(文藝春秋)
書籍:1470円、電子書籍:1155円  価格差:315円 割引率:約23%


コミック 「社長 島耕作(9)」弘兼 憲史(講談社)
書籍:570円、電子書籍:525円  価格差:45円 割引率:8%


雑誌 「日経トレンディ2012年3月号」(日経BP社)
書籍:550円、電子書籍:550円  価格差:0円 割引率:0%

正直、空いた口がふさがりません。確かにこれまで売価の何%と設定していた著作権料などは、電子書籍化するにあたっては考慮し直さなければならないかもしれませんが、いくらなんでももっと価格差が付いてもいいんじゃないでしょうか。 なんでも聞くところによると、紙の書籍の売り上げを減らすわけにはいかないから、電子書籍をあまり安く出来ないんだとか‥。要するに電子書籍の売り上げを、紙の書籍の売り上げに上乗せにしようと考えているということのようです。

いくら私だって紙の書籍が早々無くなるとは思えませんし、両方を同時進行で進めることで、どうしたって電子書籍もそれなりの価格になってしまうことも理解出来ないではありません。が、では大手出版社は10年後20年後も今と同じだと考えているのでしょうか。具体的にどういう社会になっていると想定しているのでしょうか。もし具体的に想定出来ているのであれば、既にそれへ向けて動き出していなければならないと思うのですが、この価格差無し、あるいはほとんど無いような状態がそこへ向けてのアプローチなんでしょうか。

実際にAmazonでの電子書籍の販売が開始されてみないと確かなことはわかりませんが、いまだにAppleの「ibook store」やGoogleの「ebook store」では日本の書籍が販売されてないことからしても、日本の出版業界は時代の変遷に追いつけていないと判断せざるを得ません。

家庭用ビデオデッキやゲーム機がそうであったように、見たい!遊びたい!と思われるソフトがなければハードウェアなんて売れませんし、iTunesストアの音楽販売で、デジタルデータをCDと同じ価格帯で売っていて、今ほどの人気になったでしょうか?

ぜひ出版業界の方々には、現在そしてこれからの社会の変化を素直に見つめ、書籍なり出版なりがどうあるべきなのかを真摯に検討してもらいたいと切に願っています。そうすることにより、電子書籍だけでなく、衰退が言われはじめて久しい出版業界全体が底上げされるのではないでしょうか。

そうなれば、うちのように弱小企業の小さなプロジェクトも、やっと日の目を見ることが出来ようというものです。

2012年2月15日水曜日

人生を太く生きる計算式

人にとって、眠るという行為が非常に大事であるということは、誰もが理解していることだと思います。改めて言うまでもありませんが、眠らないと死んじゃいますからね。

ところで、皆さんは毎日、いったいどのくらい眠っているでしょうか。5時間眠れば大丈夫という人もいれば、8時間は眠らないと次の日が辛い‥‥なんて人もいるでしょう。では、それを一生で計算してみるとどうでしょう。たとえば1日8時間の睡眠時間で90歳まで生きるとすると‥‥1日24時間のうち、3分の1眠ってるわけですから、単純に合計すると何と30年分も眠っていることになるのです。3年寝太郎どころか、30年寝太郎です。

私は学生時代、このことを考えると眠ることがとてももったいない気がして、何とか眠る時間を減らせないかと考えるようになりました。だって青春真っ只中、やりたいことだらけで時間がいくらあっても足りない20歳代の10年間のうち、約3.3年分も眠って過ごしてしまうなんて、考えただけでも恐ろしいじゃないですか。

そこでまずは計算してみました。1日8時間眠る人を標準と考えると、起きて活動している時間は1日16時間あります。1日4時間しか眠らない人は活動時間が1日20時間ですから、4日もすれば4時間睡眠の人は8時間睡眠の人より1日多く活動していることになります。


ということは‥このまま10年が経過すると、4時間睡眠の人は20代の10年間がなんと12.5年間も活動している(生きている)ことになるのです。さらに枠を広げて、20代~30代の20年間だと25年分になります。若く元気で、やりたいことが何でも出来る青春時代をこんなに長く生きられるのであれば、90歳まで生きる寿命が85歳に縮まっても何ら問題ないじゃないですか。

今、私は47歳ですが、 20歳の頃から4時間睡眠を続けていたとすると、活動時間年齢は54歳となります。でも実年齢が47歳ということは、既に7年分も人より多く生きてきていることになるのです。

まぁ、実際にこの理論通り完全な4時間睡眠を続けることは無理にしても、8時間を7時間に減らせれば‥7時間を6時間に減らせれば‥5時間に減らせれば‥どんどん若い時間をより多く過ごせるようになります。

ただ、慢性的な睡眠不足に陥り、健康を害することで、80歳寿命どころか50歳や40歳で亡くなってしまうという危険性も充分にはらんでいるということを忘れてはいけません。 何事も加減が大事、ってことなのでしょうが、でも、健康に注意し、毎日8時間睡眠をとっていても若くして‥なんてことが当たり前に発生している現状を考えると、細く長く生きようとするのではなく、とにかく今を太く、そしてもしかしたら短いかもしれないが、出来るだけ長く生きよう!という考え方があってもおかしくはないと思うのです。


私・・・ですか?私は完璧ではないですが、当然極力この理論通りに生きようとしています。で、これまた当然のように健康と言えるような状態ではなく、果たしてどこまで生きながらえることが出来るものやら・・・身をもって実験中、というところでしょうか。

2012年2月5日日曜日

親友ってそんなものなのか?

先日、FM放送のティーン向け番組が「親友とは何か?」というテーマでリスナーから意見を募集していました。要するに、友達と親友の境目に線引きをすることで、「親友」の定義付けをしようというもの。

番組中に寄せられた声は概ね、何でも話が出来るとか、決して裏切らないとか、嘘をついたり隠し事をしないとか‥‥そういうものが大半を占めていました。先輩の声として大人たちからもメッセージが届いていましたが、基本的には似たようなものでしたから、世間一般の考え方としてはこれが平均的なところなのでしょう。

番組でもこれらをまとめることで結論とし、更に一歩踏み込むことはありませんでした。パーソナリティーも同じ意見だったのか、それともティーン向けなのでこれでよしとしたのか、真意のほどはわかりませんが、ワイワイ楽しければOKという近頃のメディアのあり方そのままのように感じて、残念で仕方ありませんでした。

確かに私も10代の頃は似たようなものだったかもしれませんが、だからこそ、大人が主導するメディアではもっと深いところまで踏み込み、若い世代に問題意識を投げかけて欲しかったのです。

では、私のいう問題意識というのはどういうことなのかということですが、その前に、私の中での「親友」とは何かをまとめてみます。

私は対人関係を大まかに4つに分類しています。 ※常に意識している訳ではありません。
  1. 知り合い: 顔と名前が一致する。
  2. 友達: 私的な内容も遠慮なく話し合え、互いに信じあえる関係。
  3. 親友: 相手のためなら自分をある程度犠牲にすることも厭わない間柄。
  4. 大親友: 肉親と同等。自らを犠牲にすることに躊躇ない関係。
私の中では、「親のような友達」または「親戚のような友達」が「親友」です。上記の分類でいえば、前者が大親友で、後者が親友ということになります。

親が子供を思う時、自分の命がどうなるかなど関係ありません。言葉にすると大げさですが、子供を守るためならたとえ火の中だろうと水の中だろうと、躊躇なく飛び込むことが出来ます。世間的にはそうでない親もいるようですが、少なくとも私は(もしかしたら一瞬躊躇するかもしれませんが)飛び込みます。

友達関係においても、そこまで深い繋がりがあるのが「大親友」であろうと考えています。太宰治の「走れメロス」に登場する友人関係がまさにこれにあたるでしょうか。

これに比べ、命までは犠牲に出来ないが、例えば自分の財産が無くなることくらいなら問題ないとか、人から後ろ指差されるようになっても構わないと思えるのが、「親戚のような友達」である「親友」となります。


私が番組を残念だと思ったのは、この私の考え方とは違う結論だったからではありません。 寄せられた意見のほとんどが受身であり、自分本位だったからなのです。


(自分が)何でも話を出来、(自分が)裏切られず、(自分が)嘘をつかれない・・・

親友を自分に都合のいい存在だと考えていることが驚きであり、情けなくもありました。そんなのは親友以前に友達でもありません。単に自分に利益をもたらす便利な存在が親友だなんて‥。

恋愛でもそうですが、自分が何を得られるかではなく、何をどれだけ与えることが出来るのかを考え、思い悩むのが真の「愛情」であり「友情」であると私は考えます。実際には10代の若者たちも経験を積むことで理解出来るようにはなると思いますが、だからこそ番組では、「そうじゃないだろ?もっとよく考えてみろよ!」と投げかけて欲しかったのです。

当のパーソナリティー本人とは面識もあるため実名は控えますが、もし今後も同じような企画を実施するのであれば、ぜひもう一歩踏み込んだ議論へ持ち込んでもらいたいと切に願っています。